料理研究家として長年愛され、「ばぁば」の愛称でも知られる鈴木登紀子さん。
和食の伝統と心を伝えるその姿勢は、多くの家庭に影響を与えてきていて、心に残っている人も多いかと思います。
そんな鈴木登紀子さんのプライベートについて、「夫はどんな人だったの?」「夫の職業は?」「家族構成は?」と気になる方も多いのではないでしょうか。
この記事では、鈴木登紀子さんの夫の職業や画像などのプロフィール、そして結婚のなれそめや家族構成など、鈴木登紀子さんのプライベートにまつわるエピソードについて紹介します。
鈴木登紀子の夫の職業は?

鈴木登紀子さんの夫は、長年にわたって堅実な職業に就いていた一般の会社員、いわゆるサラリーマンでした。
鈴木登紀子さん夫婦は戦前に誕生しているため、結婚する前の夫は戦前・戦中は軍の主計(経理担当)として従軍していたそうです。
戦後はどこの会社であるかはわかっていませんが、民間企業に勤めていて、家庭を支える役割を果たしていました。
料理研究家として忙しい生活を送っていた鈴木登紀子さんの活動を、夫は大黒柱として支えていた存在といえるでしょう。
プライベートなことであるため不明なところも多くありますが、堅実なサラリーマンとして鈴木登紀子さんを支えていた人物であると言えるでしょう。
夫の家庭での役割
鈴木登紀子さんの旦那さんは長年にわたって家庭を支え続けた存在でした。
サラリーマンとして安定した収入を得ながら、鈴木登紀子さんが料理研究家として家庭料理の道を極めるための環境づくりにも理解があり、サポートをしてきていたようです。
鈴木登紀子さんが料理研究家としてのメインで活動をし始めたのは1970年(昭和45年)、鈴木登紀子さんが46歳の時にNHKの『きょうの料理』に初出演したのがきっかけでした。
それまで自宅で料理教室を開いていた鈴木登紀子さんですが、料理の道を極めることができたのは旦那さんの深い理解と支援があったからだそうです。
また、子育ての時期には昔ながらの男性であったため寡黙ながらも家族を大切にする姿勢で、3人の子どもたちにとっても頼れる父親でした。
鈴木登紀子さんは著書やインタビューの中で、夫について「寡黙だけれど、あたたかく見守ってくれる存在だった」と振り返っていて、決して態度に出すことはなくても、常に家族を第一に考えていた人物であることが伝わってきます。
鈴木登紀子の夫の画像は?
鈴木登紀子さんの夫は一般人ですが、若い頃の画像が一部で出回っていました。
SNSでも「かなりのイケメンだった」「晩年も端正な顔立ちだった」など、旦那さんの外見はかなり好評でした。
鈴木登紀子さん自身も初対面で「かっこいい」と感じたと語っていて、過去には夫婦の若い頃の写真がテレビや記事で使われたこともあるようです。(現在、画像はインターネット上では確認できませんでした)
イケメンの旦那さんと過ごせていた人生は鈴木登紀子さんにとって素敵なものだったでしょう。
夫の名前は?
鈴木登紀子さんの夫の名前は、鈴木清佐(すずき きよすけ)さんといいます。
旦那さんは一般人ですが、鈴木登紀子さんとの結婚生活が注目されていたこともあり、名前が公の場でも紹介されるようになったようです。
鈴木登紀子さんと旦那さんの結婚当時は戦後間もない時期であり、戦地から戻ってきた鈴木清佐さんと出会い、結ばれています。
大変だった時期から夫婦で築き上げた絆があったからこそ、鈴木登紀子さんの料理研究家としての活躍も実現したといえそうですね。
夫の年齢
鈴木登紀子さんの夫は、鈴木登紀子さんより6歳年上です。
1946年に鈴木登紀子さんが23歳のとき、旦那さんが29歳で結婚していて、結婚した年齢から判断すると旦那さんの生まれた年は1927年ごろなのではないでしょうか。
旦那さんは2009年(82歳の時)に亡くなってしまっています。
夫のプロフィールまとめ
名前 | 鈴木清佐 |
職業 | サラリーマン |
生まれ年 | 推定1927年 |
鈴木登紀子さんの夫である鈴木清佐さんは、戦中・戦後という激動の時代を生き抜いた方です。
旦那さんは戦時中、軍隊で主計(経理)として務め、その後はサラリーマンとして家庭を支えました。
鈴木登紀子さんより5〜6歳年上で、1946年にお見合い結婚していて、鈴木登紀子さんが「初対面でカッコイイと感じた」と語っているように、若い頃は「かなりのイケメン」としても知られていたようです。
旦那さんの性格は寡黙で穏やかと鈴木登紀子さんが話していたため、まさに昔ながらの日本男児といった印象の人物です。
鈴木登紀子さんと旦那さんの結婚生活は70年以上にもおよび、2009年に92歳で亡くなっています。
長年、鈴木登紀子さんの料理研究家としての道を静かに支え続けた、心強い存在だったことがわかります。
鈴木登紀子と夫の結婚までのなれそめ

鈴木登紀子さんと夫である鈴木清佐さんの出会いは、戦後の混乱が続いていた1946年に地元・青森で行われたお見合いがきっかけでした。
当時23歳だった鈴木登紀子さんと、29歳だった旦那さんは、お見合いという形式ながらも、出会った瞬間から「カッコイイ」と心惹かれていました。
鈴木登紀子さんはこの時の出会いについて「赤い運命の糸を感じた」とも語っていて、旦那さんのご縁はまさに運命的であり、ふたりは自然と結ばれていきました。
出会いから結婚、そしてその後の70年以上にわたる結婚生活まで、無口な旦那さんでしたが温かい目で見守ってくれる存在だったようで、素敵な結婚生活を送っていたとのことです。
夫との結婚を決めた理由は?
鈴木登紀子さんが夫である鈴木清佐さんとの結婚を決めた理由は、まさに「運命の出会い」だったからです。
お見合いの席で初めて出会った瞬間に「カッコイイ」と直感的に惹かれ、「赤い運命の糸を感じた」と強く意識したと語っています。
旦那さんは寡黙で落ち着いた日本男児らしい人柄であり、鈴木登紀子さんにとっては心の深い部分で通じ合える相手だったようです。
また、結婚後も旦那さんへ対する愛情は変わることなく、鈴木登紀子さんは旦那さんが亡くなった後でも「最愛の人」「今でも寂しいと思う」と思いを語っていました。
言葉にせずとも通じ合うような信頼関係があったことが長く穏やかな夫婦生活の基盤になっていたため、「かっこいい」という外見の第一印象だけでなく、内面でも惹かれ合うような存在だったのでしょうね。
家族観や夫婦観について
鈴木登紀子さんの家族観・夫婦観には、「相手を尊重し、信じて支え合うこと」が常に根底にありました。
戦後の混乱期に結婚し、家庭を築いていく中で、夫婦として何よりも大切にしていたのは「お互いを理解しようとする気持ち」だったと語っています。
旦那さんが寡黙な性格だった一方で、鈴木登紀子さんは感情を言葉で伝えるタイプでした。
タイプの違いを受け入れながら、長年にわたり穏やかな関係を築いてきたのです。
「パパ(夫・清佐さん。2009年に逝去)は生涯、お料理はもちろん、お台所に入ることすらありませんでした。無口でけんかにもならなかった(笑い)。私が一方的に話してパパが黙って聞き、ひと言返して終わるのが常でした。
お料理に関しても、『これはおいしいねえ』と褒めるか、恨めしそうに私の顔をじっと見つめて残すかで、『あら、ごめんなさいね』と私も流すの。阿吽の呼吸を体得しながらの60年間だった気がします。
引用元:NEWSポストセブン
また、「夫婦とは苦楽をともにする同志」とも語っており、家庭においても、仕事においても、信頼をベースとしたパートナーシップを何より大切にしていたことがうかがえます。
料理を通じて人と人の絆を育んできた鈴木登紀子さんにとって、家族とは「一番の安心と支えをくれる場所」であり、夫とはその中心にいる存在だったのです。
鈴木登紀子と夫の家族構成

鈴木登紀子さんと夫の鈴木清佐さんは、戦後の混乱期(1946年)にお見合い結婚し、共に温かい家庭を築いてきました。
家族構成は、鈴木登紀子さんと旦那さんのほかに3人の子ども(長男1人と娘2人)がいるため、5人暮らしの生活を長年続けていたそうです。
鈴木登紀子さんは「私は鈴木家の主婦です」と公言していて、料理研究家として活躍しながらも、家庭の中心として家族を大切にする姿勢を貫いてきました。
鈴木登紀子さんが夫と築き上げてきた家庭はどのような家庭だったのか見ていきましょう。
鈴木登紀子と夫の間には孫・ひ孫もいる
鈴木登紀子さんには、夫である鈴木清佐さんとの間に3人の子ども(長男1人、娘2人)がいます。
そして鈴木登紀子さん夫婦の子どもたちから生まれた孫は5人、さらにひ孫も7人いることが明かされています。
鈴木登紀子さんは、メディアのインタビューなどで「私は、3人の子ども、5人の孫、7人のひ孫を持つ主婦」と語っていて、家族の存在を何よりも大切にしていたことが伝わってきます。
家庭内では料理研究家である鈴木登紀子さんの手料理が中心で、家族みんなが集まる食卓には笑顔が絶えなかったそうです。
メディアなどに出てくる表の顔だけでなく、家族にとっては“ばぁば”としての存在感がとても大きかったのでしょう。
鈴木登紀子と娘や孫たちとの思い出
鈴木登紀子さんの娘や孫たちは「家庭の中心にいて、いつも温かい食事で迎えてくれる存在だった」と語っていました。
鈴木登紀子さんがどれだけ忙しくても、食事の時間になるとすべての仕事を止めて家族に向き合っていたというエピソードもあるとのことでした。
孫の一人は「ばあば(鈴木登紀子さん)の作る煮物の香りがすると、自然と家族が集まってきた」と振り返り、料理が家族の絆そのものであったことが伝わってきます。
また、鈴木登紀子さんはどんな時も人を否定せず、「あなたらしくいればいいのよ」と穏やかに受け止めてくれたそうです。
柔らかく包み込むような人柄は、娘たちや孫たちにも大きな影響を与え、家庭料理や生活の中に生かされているのでしょうね。
家族にとって鈴木登紀子さんの存在は単なる料理の達人ではなく、「暮らしと心を整えてくれる存在」だったのです。
娘も料理教室を開いている
鈴木登紀子さんの娘である川村由起子さんは、母の意志を継いで料理研究家として活動しています。
娘さんの川村由起子さん自身も料理教室を主宰し、鈴木登紀子さんと同様に、ただレシピを伝えるだけではなく、暮らしや所作、そして料理を通して「生きる姿勢」を教えるスタイルを大切にしています。
また、もう一人の娘の安藤久美子さんも、吉祥寺エリアで料理教室を開催していると言われていて、家族ぐるみで料理文化を次世代に伝える活動を続けています。
母である鈴木登紀子さんの「家庭料理は心を伝えるもの」という信念が、娘たちの料理教室の方針にも強く反映されていて、今でも多くの人々に影響を与えています。
鈴木登紀子の料理教室とは?
鈴木登紀子さんの料理教室は、東京都武蔵野市の自宅で長年にわたって開催されてきました。
毎月約10日間、1日最大8名という少人数制で行われ、全国から多くの生徒が訪れていた人気の教室です。
鈴木登紀子さんの料理教室の特徴は、旬の食材を活かした和食や家庭料理を中心に、料理だけでなく食卓での作法や心のあり方も学べるところです。
マナーのポイント | 内容 |
---|---|
思いやりの心 | 料理は「相手を思う心」の表現 |
段取り・所作 | 丁寧な身だしなみ、流れを考えた仕事、清潔な台所 |
食材・季節の尊重 | 旬のもの、日常の食材を生かした和食の工夫 |
感謝とあいさつ | 「いただきます」「ごちそうさま」を大切にする |
特に「幸せになるごはんを作る」という考え方は多くの受講生の心に残り、単なる料理技術を伝えることだけにとどまらず、「暮らしの美学」としての料理を学ぶ場となっていました。
鈴木登紀子さんの教室は紹介制や非公開で運営されていたこともあり、まさに“知る人ぞ知る”伝統的な料理教室だったようです。
娘たちとの関係性
鈴木登紀子さんと娘たちの関係には、深い信頼と愛情にて築かれています。
鈴木登紀子さんは「手抜きではなく“知恵抜き”をしなさい」という言葉をはじめ、家庭料理における心構えや所作を日々の暮らしの中で丁寧に伝えてきました。
娘たちもまた、母である鈴木登紀子さんの教えを実践し、自らの教室で「母の味」や「母の心」を伝える存在になっています。
また、「目秤」「手秤」の感覚を養うことや、感謝の気持ちを料理に込めることなど、鈴木登紀子さんから娘へと受け継がれた教えは、単なる調理技術以上の意味があると言えるでしょう。
まとめ
鈴木登紀子さんの夫である清佐さんの職業はサラリーマンであり、戦後まもなくしてお見合い結婚し、70年以上にわたり家庭を支え続けてきました。
鈴木登紀子さんは、旦那さんとの出会いを「赤い運命の糸」と表現し、生涯にわたって深い愛情と信頼を寄せていたことがわかります。
また、家庭では3人の子ども、5人の孫、7人のひ孫に恵まれ、温かい家族関係を築いてきました。
娘たちは料理研究家として鈴木登紀子さんの教えを受け継ぎ、現在も料理教室を運営し、母からの教えを元に次世代へと繋げる活動をしています。
家庭料理を通じて人と人との絆を大切にし、自らも一人の「主婦」として家族を支えた鈴木登紀子さんはとても素敵な家族に囲まれて生涯過ごしてきたのでしょうね。